共済について
1.労働者自主福祉の始まり
17世紀以来、マニュファクチュアを発達させたイギリスでは、1769年のアークライト紡績機の特許取得から、産業革命期に本格的に突入しました。産業革命は、産業のあり方を大きく変えただけではなく、労働者と工場主、従業員と雇用者の関係を一変させました。中流階級の年収は200ポンドから1,000ポンド。一方で、熟練労働者の年収は50~70ポンド程度、不熟練労働者は30ポンド程度でした。なお、貴族(上流)は大地主で、年収1万ポンド以上、5万ポンド程度でした。
中流階級下層の工場主(雇用主)は労働者に、「貧乏は自分の責任、良い暮らしをしたければ他人に負けずにがんばること、それが能力主義に基づく競争社会で生き抜く鉄則だ」、という「自立・自助の原則」を押し付けました。しかし、いくらキツい仕事をこなし、長時間労働しても、労働者が中流階級にのし上がれるはずがありません。逆に労働者同士が他人を蹴落とす競争をしていては、「労働力」という労働者の唯一の「商品」を安売りすることにつながり、賃金は上がらず、生活も一向に良くなりません。
また、他人に頼るなと言っても、病気になると、医者に多額の治療費を支払わなければなりません。治療費を得るため、逆に無理をして働けばますます体は弱くなり、家族を残し若くして死に至ることもあります。
すると遺族は数十ポンドもの葬儀徴用を負担したりすることも…。または生活のために更に安い貸金で働かざるを得ず、児童労働も増えていきました。さらに、仕事でのケガは「自己責任」とされ、そのために、能率が上がらなくなった労働者や、年を取って働けなくなった労働者は、雇用主から何の保障もなく解雇されました。
では、労働者は誰に相談すればよいのでしょうか。雇用主が労働者の生活を壊したのです。自立・自助をタテに相談に乗らないか、相談に乗るとしても、逆に生活の弱みに付け込まれ、命令に服従しなければなりません。そしてその一部の労働者を引き合いに出して、多くの労働者の貸金を下げ、労働時間を延長し、仕事の密度を強めようとします。そこで、労働者同士の相談が始まります。
●19世紀イギリスの貨幣単位
1ポンド=20シリング、1シリング=12ペンス
なお、1830年頃の労働者の夫婦と子ども3人の世帯の生計は、食費と被服費だけで週25シリングが基準とされていた記録があります。
●当時のイギリスでの死亡者平均年齢
1840年、リヴァプール市での調査では、1年間に死亡した人の平均年齢は中流階級の家族が35歳に対し、労働者の家族では15歳でした。労働者の過酷な労働によるものと、それ以上に労働者の子ども達の多くが、幼くして死んでいったことが原因です。
「イギリス合同機械工組合」の共済手当(1851年)
種類 | 金額および給付期間 |
組合費 | 週1シリング |
失業手当 | 週10シリング 14週間 週7シリング その後、12週間 |
疾病手当 | 週10シリング 26週間 週6シリング その後、26週間 |
労金年金 | 週7シリング 25年加入55歳から 週8シリング 30年加入55歳から 週9シリング 40年加入55歳から 週10シリング 50年加入55歳から |
傷害手当 | 100ポンド |
死亡・葬式手当 | 12ポンド(妻5ポンド) |
移住手当 | 6ポンド |
ストライキ手当 | 週15シリング(月5ペンス搬出で職業防衛基金設置) |
2.共済活動(助け合い)から始まった労働組合
〜パブで、熟練労働者たちが〜
仕事を終え、毎夜のようにパブに集まる熟練労働者の常連たち。一人でも欠けると淋しく、気がかりなもの。その夜の集まりを休んだ理由が、本人の病気やケガ、あるいは失業などと聞かされると、皆、身に染みて分かること。落ち着いて飲んではいられません。
そこで飲み友達の一人が切り出しました。「オレたちの仲間が病気で休んでいるんだ。皆、もう一杯ビールを飲んだつもりになって、その一杯分のカネをこの帽子の中にいれてくれないか。オレがまとめて見舞いに持って行こう」。なんとなく沈んでいた飲み友達もほっとします。病気が治ってパブに復帰した本人は皆にお礼を言います。「ありがとう!次に誰かが病気やケガをしたら、オレが言いだしっぺで皆のカンパを集めるよ」
〜労働組合の形成〜
このような助け合いが繰り返されていくうちに、「誰かが病気やケガ、失業するのだから、前もってみんなでお金を出し合っておいてはどうだろう。そしてお金を貯めておいて、何かあった仲間に出すようにすればいい」とまとまった形になっていきます。「まず会費を決めて、病気の時、ケガの時、いくら支給するかも決めよう」…いわゆる「規約」が出来ます。そしてお金を管理するのは書記長兼会計係。この人が力を持ってきます。書記長の仕事は、酒を注ぎお金を染める大変な任務だったようです。会議の前に一杯、一時間後にもう一杯。仲間達は酒を飲みながら、各々の生活の問題を話します。話し合う中で、話題は皆に共通するものに絞られ、知恵を出し合います。しかし飲みすぎてケンカ乱闘に至ることもあり、次第に会議の場は酒場から独立した事務所へと移っていきました。
このように、助け合いをもとにして、労働組合の原型が生まれました。
共済活動が労働組合の規約ではっきりとした形を取った最も著名な例は、イギリスの合同機械工組合
(ASE)です。いくつかの友愛組合的な相互扶助組織力が結集して、1851年に約5,000人の級合員で発足しました。組合の目的は、次のようなものでした。
1. 必要なときに相互に助け合うこと
2. 組合の恩恵を相互に享受できるよう労働条件を規制すること
3. われわれの職業にあける労働力過剰を防止するために、規律の行き届いた組織をつくること
組合費は週1シリング。賃金が週30シリング程度なので、3%強の組合費です。しかしそのうち共済手当に組合財政の5割~7割がまわされ、組合員に直接役立っていたのです。


